アロハストリート発刊の背景 その4

創業当初、ウィンキュービックの生業をインターネットポータルサイト事業、と位置づけたものの、それでは成り立たないことがわかり、それを機にフリーマガジンの発行を加味したメディアミックス事業として方向転換をしました。本来は石にかじりついても貫くべきだと、京セラ創業者の稲盛さんには言われそうですが、私の判断は方向転換でした。創業後、半年でこの方向転換をしたからこそ、今日まで事業が継続出来たと考えています。
私としては、マガジンは既に18年の歴史がありそれなりの評価とお客様がついている、と高をくくっていました。しかし、単に歴史があるだけで採算は取れていなかったのです。従って、フリーマガジン出版事業で利益が出るようにするだけでも簡単ではないのに、ポータルサイト事業も併せて軌道に乗せることが如何に大変なことか、ということが分かっていなかったのです。経営者としては全く未熟でした。
まず、マガジンを再創刊するにあたり、マガジンそのものを圧倒的に魅力的にしなければなりません。見た目の綺麗さを出すためにも、本来は高級すぎて使えない紙を使う、製本体裁も簡易型ではなく本格的な製本仕様にする、デザインも一流の会社に依頼する、当初はコンサルタントに相当の費用を払い、ハワイにも頻繁に来てもらって指導を受ける、というようなこともしていましたから、出費は止めどもなく続きました。
ただありがたいことに、出版を重ねる毎に広告収入は伸びていきました。しかしそれでも費用をカバーするにはまだまだ売上が足りません。運転資金が足りなくなれば、親会社に頼るということが続きました。増資に次ぐ増資。それでも足りないと貸付金、さらに足りないと支払い遅延を親会社に認めてもらう、と言ったことを繰り返しました。創業当初から出資して下さった株主さんにも増資をお願いしました。そんなぎりぎりの努力をした結果、やっと自前の資金で経営が回るようになったのです。
しかし、そうこうしているうちに今度は円高です。2009年には1ドルが100円を切りました。2010年には80円台になりました。こうなると日本での印刷では採算が取れなくなってしまったのです。親会社にしてみれば、子会社から印刷が受注出来ない、それでは何のための子会社なのか、ということです。しかし、ぼやいてばかりはいられませんでした。ハワイの競合が月刊を武器に売上を伸ばしている、ということが分かってきたからです。そうすると、採算だけでなく納期が問題になってきたのです。
旬の情報提供はメディアとしても、広告主さんにしてもとても重要になってきていたのです。そうすると日本印刷はもう現実的でなくなってしまったのです。
”円高で 採算取れず ほぞをかむ”