「私の履歴書」ハワイ編 その4

オーブンハワイは創業当初、単なるブローカーだったので生産設備は全く持たず、今でもある「パンナムビル」(何故か名前は変わらないのです。)にオフィスを構えていましたがその後、印刷機や若干の製本設備を持つということで、チャイナタウンが近いスミスストリートに引っ越したのです。そして、私はそこに赴任したわけです。
なんと2階は売春宿。オフィスから50メートル圏にはストリップ劇場、それにいかにもイカガワシイ飲み屋が立ち並んでいました。ある日、玄関の前が濡れているので、どうしたのか聞いたら、実は昨晩発砲事件があって流れ弾に当った人の血痕を洗った後だ、と言うのです。また、ある日出社したら、天井から水が漏れてシミになっていました。これも、2階売春宿からの水漏れだと聞いて、あらためてとんでもない所なんだ、ということを思い知らされました。
着任後半年位したら、だんだんお客様が見えてきて、何をどうしたらいいのかが分かってきました。当時のナンバーワンのお客様はJTBハワイさんでした。日本人旅行者向けの旅のガイド、お土産パンフレット、ホテル案内、他島の地図、それはそれは伝票以外の商業印刷物は相当やらせていただきました。それも、ハワイという土地柄、旅行代理店さんが一番のお客様です。従って、主たる旅行代理店さんは殆どお客様でした。それも似たような印刷物を制作からやらせていただいておりました。先日、当時の私どもをご存じの方から、「あの頃はオーブンハワイが全部やっていたんじゃない」、と言われましたが、そうだったかも知れません。数少ない競争相手から、「和田さん、体を壊さないように。」と気遣って頂いたのを覚えています。当時はまだ働き盛りの20代、どんなに働いても疲れたと思ったことはありませんでした。
当時のハワイの旅行代理店業界のトップ1,2はJTBさんとジャルパックさんでした。両社ともお客様で担当は私です。年に2回大きな仕事が動きます。そういうときは、本社から応援に来てもらって、コピーライティングからデザインまで器用にこなす方に大いに助けてもらいました。彼にしてみても、ハワイに出張出来て自分の得意な仕事をやらせてもらえるということで忙しい反面、結構楽しんでいるようでした。このように制作はハワイで、印刷は日本という本社にしてみれば最も理想的な子会社でした。
そうこうしているうちち、ハワイの他の会社に勤務していた実弟がオーブンハワイに入社してきました。勿論、営業として。これで、営業体制が充実しました。もっとお客様を増やせます。いい流れになってきました。仕事も増えてきて、オフィスも手狭になってきたのです。
”いい流れ 仕事も増えて 喜ばれ”